omp メッセージボード
<ピックアップ版>
<目次>
・「ヨーロッパ的な雰囲気の・・・中之島〜御堂筋・心斎橋」(2003.2.27UP) ・・・・・ 「日本最大のブティック街・心斎橋」に関するメッセージ
・三菱商会(三ツ川商会)の「三」は大阪の3本の川(淀川・安治川・木津川)を象徴!か?(2002/6/6)(2006/11/18) ・・・・・ 「なにわと土佐と三菱と」に関するメッセージ
・首都移転について---読者の声 ・・・・・ 「ompは首都移転を推進します」に関するメッセージ
・鉄道への提言について---読者の声(2004/3/15) ・・・・・ 「鉄道への提言」に関するメッセージ
・大阪の掟 「エスカレーターは左を空ける」について 東京の方から(2005.4.4)・・・・・大阪の掟 に関するメッセージ


・・・そのほかの声(ompメッセージボード<自由書き込み版>


 

"T.U" wrote:

 はじめまして。
 今日はじめてこのホームページの中の”心斎橋ブテイック街”を大変興味深く拝見しました。
私は現在シドニーに住んでいます。日本人ですが、大阪は好きな街です。
 日本人の一般的大阪のイメージは、道頓堀、通天閣、商売人、吉本、食い倒れといったイメージが強いですが、
本当の大阪の顔を知らない人が多いと思います。

大阪に行くとき、必ず楽しみにして行くのが、大江橋&淀屋橋そして中之島、そして御堂筋。
淀屋橋から心斎橋まで歩きます。

なぜ好きかというと、例えば、例えば大江橋&淀屋橋のたもとで川を見ているとヨーロッパ的な雰囲気を感じるからです。
そして淀屋橋のところから御堂筋から心斎橋までの間もヨーロッパの雰囲気を感じるスポットがあり大変好きです。

例えば、現在大丸百貨店のある御堂筋側の通りは歩道も広く、イチョウ並木と大丸のクラシックな建物がいい感じだと思います。

私が大阪を訪れたのが3−4年前なので現在の御堂筋もかなり変わってきていると思います。
特に海外の有名なブランド店が御堂筋沿いにかなり増えているとのことで、私は大変喜んでいます。

海外の有名ブランドの経営者がなぜ御堂筋を選んだかというと、
私の個人的な推測ですが、彼らは大阪に来ていろいろ大阪市内を見たと思いますが・・・、
例えば梅田に店をなぜ出さないかというと、
まず梅田の街は地下街から形成された町で街自体活気があり高層ビルが増えていますが、
梅田でウインドーショッピングできる、まっすぐ伸びて整然としたおしゃれな通りが皆無.。
それと地下街は白人の方には好評ではない・・・といったことだ思います。

やはり御堂筋の雰囲気がいいです。
並木があり歩道が広いイタリア、フランスといったヨーロッパの香りが御堂筋にはあります。
そのうち心斎橋から淀屋橋&中之島までそのような海外の店が御堂筋の両側を占めると思います。

このあいだ"BENETTON"の社長が御堂筋に店を出した理由は
「パリのシャンゼリゼと似た雰囲気」 と 「将来必ず御堂筋は素晴らしい通りになるとの予感」です。
私も御堂筋は将来素晴らしい通りになると思います.

現在の御堂筋は問題も多く、例えば自転車の放置、駐車違反などが御堂筋の美観を損ねています。特に自転車。

梅田の街づくりでの失敗は地下街が多すぎて、地上のまちがもう一つなことです。
地上をしゃれた感じに開発すべきだと思います。
阪神百貨店と阪急百貨店を結ぶ陸橋も梅田の景観をすごくダサイ感じにしていると思います。
陸橋ははずすべきです。
それと梅田にくる方が気がついていないと思いますが、阪急百貨店とナビオビルの間の通り(なんという名前の通りかしらないですが)
非常にいい感じの通りなんですが、阪急側&ナビオビル側からも店らしい店がない。
梅田の街はほとんどの店が地下かビルの中にあり、地上の景観が殺風景といった印象です。

最後に、これだけ御堂筋に世界の有名ブランドの店があるのであれば
日本全国におっしゃれな御堂筋でのショッピングツアーの企画&宣伝をすべきです。

えば・・・中之島の三角州を背景に遊覧船に男女のファッションモデルが、イブニングドレス&男性は正装して船のデッキでシャンペンを飲んでいる風景・・・、そして御堂筋のブテイック街をウインドーショッピングしている・・・ようなCMを全国に流せば、かなり反響があると思います。
大阪の観光イメージが東京、神戸&横浜を超えると思います。
大阪は東京、横浜、神戸にない、すごく素晴らしいスポット、中之島、御堂筋があり、今後このスポットを磨きををかけるべきです。

私は現在海外に住んでいますが海外でのいろんな情報を流せればと思っています。
では失礼いたします。



T.U さま
意義深いメールありがとうございます。
非常に嬉しく読ませていただきました。

昨年末、毎日新聞さんにこのページのことで取材され(12月23日掲載・大阪版)、その際「ここの魅力」として、「広い歩道」とか「歴史あるイチョウ並木」とか「風格ある街並み」とか答えていたのですが、頂いたメールの「ヨーロッパの雰囲気」!伝わりやすい言葉ですね!
勉強になりました。(次のときはそう答えます!)
やはり、海外におられると、視野が世界的ですね。

また、CMのアイデアもいいですね!
中之島周辺には外輪船「ひまわり」(下記アドレスの写真の一番左の船)が居ますので、
http://www.keihannet.ne.jp/suijobus/
そこで正装の男女がシャンペン。その後心斎橋ルイヴィトン-カルチェ前をウィンドウショッピング・・・
って感じですね。

またどうぞ、よろしくお願い申し上げます。

平成15年2月24日       
大阪まちプロデュース
山根 秀宣   


山根秀宣様

さっそくのメールありがとうございました。
山根さんのホームページは毎日新聞とかに取材されリ、ヤフーとかすごいですね。このホームページ見ているとほかのホームページと違って大阪に対する情熱を感じます。

ところで,CMの件で外輪船”ひまわり”がいいですね。船の先端にデッキがありそこで男女のモデルにシャンペングラスを持ってもらって楽しくデッキで語り合っているところを、中之島の市庁舎とかレンガ造リの中央公会堂を背景にまた、天神橋を背景にしたロマンチックな光景。・・・それから御堂筋のブッテイク街のお店の前。

ブランド嗜好の強い方は男女問わずロマンチックな方が多いと思われます。
例えば全国の方を対象とされたショッピングツアーとして
バスで、OAP港に案内してそれから遊覧船で淀屋橋までの船旅を楽しいでもらい、淀屋橋から御堂筋に入り御堂筋の風景を楽しいんでもらい、ブテック街まで案内するコースはいかがでしょう。

それと女性のファッション雑誌にに載せるのもいいと思います。

御堂筋の将来ですが、例えば淀屋橋のあたりからオープンカフェ、ケーキ屋、パン屋さん、海外の有名ブランド店などが御堂筋の両側にぎっしりと心斎橋まであればウインドーショッ
ピングを楽しめます。

ヨーロッパによくあるオープンカフェが増えれば、コーヒーを飲みながら道を歩く人を見れる
し、また歩いている人もオープンカフェでコーヒーを飲んでいる人を見ながら楽しく歩けます。そうすると、御堂筋で流行の服を着て歩く人が増え御堂筋が流行の先端を行くメッカになると思います。
 


三菱商会(三ツ川商会)の「三」は大阪の3本の川(淀川・安治川・木津川)を象徴!か?
「なにわと土佐と三菱と」に関するメッセージ
omp様

初めまして、藤本と申します。
「三つ葉柏(土佐柏)」の家紋を調べていましたら、貴HP.に出会いまして、首記の記事を読ませていただきました。
その中で、どちらが正しいのかな?、と思った点がありましたので、ご連絡します。

記事の中に、
「この土地が、物流の要となる3本の川に恵まれた土地であったため、
  三川商会(みつかわしょうかい)とし...」(ただし三菱には未確認)とありますが、
別のHP.内の記事に、
「川田小一郎、石川七左衛門、中川亀之助(森田晋三)の3人を代表として会
社を作った。川の字をそれぞれ名前にもっている3人の男の集まりなので、
社名を九十九商会から三川商会と改称した。」という表現がありました。
http://www.asyura.com/sora/bd13/msg/481.html
の50-60行目頃

ご参考までに。(2002年5月31日 14:03)



藤本様

お返事大変遅くなり失礼しました。
お知らせいただいたHPを確認させていただきました。
現時点では真相を解明できておりませんが、下記のように考えました。

当時、藩の財産は新政府に没収されたので、「土佐」の名をはずす必要があり
開成館とか九十九商会などとした。
もちろん川田小一郎、石川七左衛門、中川亀之助(森田晋三)には
岩崎弥太郎は「3人を代表としたから三川商会にしよう」と言った可能性はあります。
しかし、その時点で既に三菱マークを使っていたことや、その後名前が
すぐ三菱になっていることから、「三ツ川」は「三菱」への伏線であったと考えます。
3人の有力者が集まってできた会社ならまだ少しは納得できますが、
岩崎弥太郎の強力なリーダーシップの会社で、その番頭たちがいくら立派でも
その名をつけたら社員がついて来なくなるでしょう。
 

江戸末期から明治初年ごろにおける江戸・東京は、
戦災をおそれ、また、幕府が無くなった江戸に魅力は無いと
大八車で都落ちする人々が街道に行列を作り、
人がいないゴーストタウンになったといいます。
(前島密がそれを指して「大坂はほっておいても繁栄するが
江戸はそうは行かぬ」といって江戸遷都論を推すのです)
そういった時代、大量輸送を可能にするのは水運であり
水の都大坂、そしてそこを貫く3本の川は商社の宝とも言えるものでしょう。

ここは、三階菱(岩崎家)や三ツ柏(山内家)など元々「3」に縁の有る会社が
3本の川にも恵まれることから、
また、番頭にも川がつく人が3人居たから、
オーナー岩崎も、社員達も、番頭3人も
それぞれが都合の良い様に理解できるように
「三ツ川商会」としたのが本当のところだったのではないでしょうか。
岩崎の利口さを考えると、そう思います。

平成14年6月6日   
大阪まちプロデュース
山根 秀宣   


大阪まちプロデュース
山根秀宣様

初めまして
突然の不躾なメールで申し訳ございません。
本日ウェブサイトを拝見させていただいたのですが、「なにわと土佐と三菱と」に記載されておられる三菱のロゴの由来についてご意見申し上げたく存じます。
これは司馬遼太郎の「竜馬がゆく」に記載されていた内容ですが、三菱のロゴは土佐の藩主である山内家の家紋「丸に土佐柏」に由来するとのことです。岩崎弥太郎が商いに使った土佐の藩船には、当然山内家の家紋が染め抜かれていたでしょうし、その意匠を新会社のロゴとして使うというのも自然な流れかと思います。具体的な形についての資料は
http://www1.ocn.ne.jp/~argus/bunrui-1/10-06kasiwa.html
の「丸に土佐柏」をご覧いただければと存じます。土佐山内家の藩祖である山内一豊を描いた今年のNHK大河ドラマ「功名が辻」でもよく登場しており、一度目にすればこの説の説得力が格段に増すかと思われます。
是非ご覧いただけますようお願い申し上げます。

H(2006年11月18日 14:31)
(ご本人は氏名を明記されていましたが、掲載にあたって匿名にさせていただきました。)

Hさま

メールありがとうございます。ご紹介のHPについても見させていただきました。

山内家の家紋「丸に土佐柏」については当HPの「三川」の絵の中にも略図を書いておりますように
承知しております。(略図は葉が少し太いですが)
柏の葉っぱが菱形になったのも岩崎家の家紋「三階菱」に由来したものと思えます。

しかし、では「九十九商会」や「三川商会」という名はどこから来たのでしょう?

当時、衰退していた江戸・東京(トウケイ)と比べれば
これからの産業の動脈とも言える水運に恵まれた大阪は夢の商業拠点であったでしょう。
大阪は八百八橋と言われ、昭和30年代まで数多の河川が有りましたが
その中から運河を除いた河川本流が 淀川、安治川、木津川(木の津(港)だったからでしょう)で、
水運の母なる三川であったと思われます。

大阪は慶応4年東京(明治2年)に先駆けて外国人に開放(「開市」)されるが
神戸より大阪の居留地に外国人は高い値をつけており、外国人たちが大阪を有望視していたのがわかります。
この川口居留地の目と鼻の先にあったのが大坂土佐商会
慶應4年に「大阪府」が設置され、土佐藩の財産は没収される運命になるに際して、藩から離脱し、
この、商都・大阪(当時の大阪への経済集中は今の東京よりすごかった)を足がかりに
世界へ雄飛しようと。明治3年。岩崎弥太郎はそのように考え、起業したと思われるのです。

山内家の家紋由来を否定するわけでは毛頭有りませんが、
当時の経済的、地理的、政治的側面から「それだけでは無かろう」というのが私の説なのです。

三菱の大阪時代の話は、三菱自身が隠蔽)しており、
(本来国家に捧げるべき資材を「私」してしまったのですから尤もですが)
「意図した歴史」しか公開されていません。現時点では後世の歴史家にゆだねたい所です。

以上、よろしくお願いいたします。

大阪まちプロデュース・山根秀宣(2006年11月21日 2:11)

百科事典には載っていますが、会社HPには載っていません。輝かしい社歴なのに、社歴を語るに際して創業の地を書かない会社は珍しいと思います。
 

Hさま

「大阪まちプロデュース」の歴史面の知恵袋の方から
先日の私の回答に付加意見がありましたので、あらためてお送りいたします。
 ・・・・・・・・・・・・・・
「大坂・三菱の話、興味深く読ませていただきました。
あと付け加えるとすれば、大阪は情報の集積地だったということです。
マスメディアは大阪からということはあまりにも知られた話ですが、
たとえば自由民権運動の連中は大阪を拠点に活動をします。
もちろん土佐派は土佐から出発するのですが、
すぐに大阪に移ってきますね。
中江兆民、植木枝盛もそうですが彼らはなぜ大阪へ来るかといえば、
大阪が日本で第一の情報の集積地であり、情報発信地だったからです。
すなわち彼らは大阪にいることで全国の様子を知ることができ、
常に自らの主張を新聞をはじめメディアに掲載することができたのです。
昨日はその話はしませんでしたが、経済の基本は情報です。
経済の中心地であることはすなわち情報の集積・発信地であることを、
付け加えておきたいと思います。
手塚治虫の「陽だまりの木」でも主人公が西南戦争へ大阪から出発します。
日本郵船の本社が大阪にあって西南戦争で岩崎が大もうけするのは有名ですが、
岩崎もそうですし、製紙業界の真島もそうですが、
経済と情報は切っても切れないとするのは、
昔からそうだったわけですね。」
・・・・・・・・・・・・・・
とのことでした。

また、時代は幕末から江戸後期に遡りますが「東海道中膝栗毛」の言葉でも
大坂の繁盛を「木津、安治川の(にぎわひ)」と讃えておます。
ここからは先日と同じですが、この2川と京の都との交通路で木津・安治川の本流
である「淀川」を加えた3つの川が、大坂の水運(ひいては経済・情報)を支えていたので、
海運業で身を立てようとした三菱にとって、最適なシンボルであったでしょう。
と思うのです。

全国の藩の財産・借金はすべて新政府が肩代わりするという(軍艦などを買って借金の多い藩に有利な)
新政府の方針で、藩に関係する「土佐」「高知」「山内」が一切使えない中で、いかにも「大坂でやってます」
という「地場らしいポーズ」を取ったと思うのです。

(2006年11月27日 17:16)

山根様

三菱のロゴマークについて当時の大阪の状況を鑑みた数々のご考察、大変勉強になりました。
表層的な意匠にしか目を向けられなかったことに恥入っております。
意匠に含まれた思いや諸事情の意味を知ると、
よりその企業に、ひいてはその企業を育んだ大阪にも関心が深くなりますね。
興味深いお話をご教授いただき、感謝しております。
有難うございました。

H(2006年11月28日 11:19)

Hさま

ご丁寧なお礼メール賜り、こちらこそ恐縮いたします。

たいへん良い質問を頂き感謝しています。おかげさまで改めて勉強する機会が得られました。

どうしても私たちは現在の目でしか過去の事実を見ることが出来ませんが、歴史を活かして、これからのまちづくりを考えるには、その当時の背景や人々の感情と史実の因果関係が重要となってきますので、ついつい背景についての講釈が長くなってしまいます。

今後とも当ページ並びに大阪をよろしくお願いいたします。
(別に大阪市長でもないんですが・・・(笑))

大阪まちプロデュース・山根秀宣(2006年11月28日 18:11)


大阪の掟 「エスカレーターは左を空ける」について 東京の方から
大阪の掟 に関するメッセージ
> ■「エスカレーター」の話について
> これは、私個人的には「どっちでもいいじゃん!」という程度の
> ことなのですが、ompさんが例に挙げられていた大阪方式の方が
> 世界的に見てマジョリティであるということや、合理的である
> ということに対して少しだけ参考意見を。
> 日本の自動車社会は、ご存知の通りイギリス同様左側通行です。
> これは、世界的に見てマイノリティなわけですが、そのことが
> エスカレーターの通路確保方法にも関係しているのでは
> ないだろうか?と私は思うのです。
> 例えば高速道路で。追い越し車線は中央分離帯に近い側、つまり
> 右側ですね。通常速度で巡航する車両は左側を走行し、追い越す
> 車両が右側を走行する。これは、高速道路がほぼ、車線の
> 外側から入出するように作られているためで、通常走行中の車が
> 高速道路から出て行くときに減速しなければいけないところへ
> 追い越し車両が左側から迫ってきたら不都合があるからです。
> こういった車社会のルールが、自然に歩行する際にも適応され
> ついにはエスカレーターのルールにも適応されたのではないかと
> 思います。
> そう考えれば、急ぐ人のために右側を空けることが不合理である
> とは思えず、また、途中に出口・入口の存在しないエスカレーター
> なのですから、左側を空ける大阪方式であってもなんら
> 不合理ではないと思います。


この件は以前調べたことが有ります。
通行方向の歴史はもっと古くお侍時代に遡ります。
右利きの人の刀は左に差しており、それが互いに引っかからないため
細い廊下ですれ違うときは左によけるのが作法でした。

これが自動車に引き継がれました(はずです)が、
これには元の理由(刀)はなくなったものの
結果としては合理的だと感じています。
その理由は以下の通りです。

私の生態調査では、多くの人は正面からやってくる障害物を
左によける傾向が有ります。(調査地:大阪心斎橋)
自転車でのすれ違いでも圧倒的に左に避けます。
だから人も車も左側通行が良いと思われます。

ところが、どういった経緯か忘れましたが
「車は左で人は右(側通行)」と決められました。(警察の指導)
歩道が整備されていない時代、(道幅も1間とか2間とかの時代)
車優先で考えて
歩行者が後ろ向きにいるのは車に気づかず(邪魔で)危ない
と言う理由かもしれません。
と思って調べたら出てきました。
参照
http://www2.plala.or.jp/kamkamkam/gimon4/no167/tuukou.htm
日本同様サーベルが引っかかるので左側通行のイギリス発祥のアメリカが
日本と逆なのも、「人が左側通行」を優先で考えて、対面になるため
右になったと書いて有ります。

私は、生態調査の結果から、人も左側通行にすべきと考えています。
「人は右」と決められた時代(昭和25年らしい)のように、
車と人が入り乱れていないので、本来の姿(性質に合った姿)に戻すべき・・・

と考えるからです。

前置きが長くなりました。
エスカレータで立っている人は、歩く人にとって障害物ですので、
左に避ける形となる大阪方式が合理的だと、やっぱり思います。



 

首都移転について---声
「ompは首都移転を推進します」に関するメッセージ