堀江土佐三菱
                                                                                                  2002/02/28 omp「なにわと土佐と三菱と」を2009/12/30改題


 いま、若い人で賑わう堀江だが、4丁目まで来る人は少ない。

 長堀通りと、新なにわ筋が交差するこの辺り(地下鉄西長堀駅)には、大阪市立中央図書館があり、その西側に土佐公園が広がる。
 桜が多く、私もここで花見をしたことがある。
 隣接して土佐稲荷神社もある。なかなか立派なお稲荷さんである。

 なぜ、土佐堀川と離れたこの地に「土佐」の名が集まっているのか?
 (地図)


 
 
 


かつおざばし(長堀×新なにわ)


しらがばし(長堀×あみだ池)
 

堀江と土佐と三菱と
(大阪・西区の当社テナントビル・館内報より。1999年6月17日発行時タイトルは「西区と土佐と三菱と」)
 倒幕の立役者“薩長土肥”の4雄藩の一つ土佐藩は、これも商売上手な藩であった。

 土佐の鰹を商都大阪へ運び、そこから全国へ流通させた。その市が立ったのが鰹座。現在の新なにわ筋と長堀通りの交差点、鰹座橋(かつおざばし)はそのなごりである。別名土佐殿橋(とさどのばし)とも呼ばれた。

 江戸期の大阪西区は北から土佐堀(とさ=高知県)、江戸堀(えど=東京)、京町堀(きょうまち=京都)、阿波掘(あわ=徳島県)、薩摩堀(さつま=鹿児島県)、立売堀(いたちぼり“いたち”は伊達藩(だてはん=仙台)の読み替えとの説もある)、(西)長堀川、堀江川、(西)道頓堀川が西横堀川と木津川の間に東西にクシのように通じる、文字通り水の都で、全国物資の流通センター的存在であった。(古地図参照)
 土佐藩は西区鰹座橋一帯の長堀川両岸に蔵屋敷街を形成し、鰹や木材を大いに売りさばいた。そして、蔵屋敷の鎮守社として土佐稲荷神社(現在:北堀江4-9)を置き、あみだ池筋が長堀川(現、長堀通り)を渡る橋に故郷土佐平野の北にそびえる白髪山から、白髪橋(しらがばし)と名付けた。と言う。

 (本稿、大阪古地図の下に続く)

鰹座の説明byライオンズクラブ
(上からのつづき)

幕末期、長崎での土佐藩の対外国への面目を掛けた後藤象二郎の豪遊や、軍艦などを大量に購入したことで、資金難に陥った土佐藩の財政改革に抜擢されたのが岩崎弥太郎(いわさきやたろう)。三菱財閥の創始者である。
 岩崎は強力な指導力を発揮して藩の工場や商業組織を立て直す一方、私有化してその本店を大阪西区に置いた。もとの「大阪土佐商会」(西区役所通り)を明治3(1870)年「九十九商会(つくもしょうかい)」という海運業の私商社に改組、改称したのだ。さらにこの土地が、物流の要となる3本の川に恵まれた土地であったため、三川商会(みつかわしょうかい)とし、明治6(1873)年に三菱商会に変名した。※注
 現在の、三菱商事、三菱UFJ銀行、日本郵船などの業務はここ西区から始まったのである。その後本店を東京に移し、日本を代表する大財閥となるが、住友家や安田家、三井家の財閥が創業者の名前で呼ばれるのに対し、三菱のみが岩崎家の名を付けなかったのは土佐藩への遠慮だったかも知れない。いずれにしろ三菱の名に残る「三(みつ)」の字は大阪西区の3本の川に由来するようである。※注


(※注:山内家は土佐藩藩主。菱形それぞれに淀川、安治川、木津川をあてているのは、
「三ツ川商会」の名称からの筆者ompの推測で三菱本社の公表とは異なります。
異論あり→メッセージボードへ
三菱本社の歴史紹介サイト



1999年6月17日発行「Y’sピアニュース」寄稿 山根秀宣
2024/02/10銀行名修正

(参考資料:「西区の史跡」(1995年西区役所刊)、「実記100年の大阪」(1988年読売新聞大阪本社編)、「電子ブック版日本大百科全書『岩崎弥太郎』」(1996年ソニー・小学館刊)ほか。)

 ⇒アップすると⇒  
土佐稲荷の東隣、現在の「くすのきコーポ」の片隅に立つ「岩崎家旧邸址」の碑

つまり、この辺りは三菱グループが生まれたところである。

<土佐稲荷神社に見る三菱>
神社を囲む玉垣(たまがき・石の柵)(北側)は三菱グループ。
「三菱金曜会」の側面が「三菱銀行」
 手前も三菱、奥も三菱・・・

大きいものだけ抜粋すると・・・(→→→ずーっと右の方まで続いています。画面を動かしてご覧ください→→→)

ほとんど三菱グループである------圧巻!
(後ろのほうの「白鶴酒造」はお神酒のご縁?
また、「金剛組」は世界一伝統ある建設会社。神社建築の会社。
両社は三菱グループではないようだが。)

(裏に年号が書いてなかったが新しい物だった。確か1980年ごろ「三菱は大阪生まれです!」とかいう三菱銀行のキャンペーンがあったが、その頃のもののような気がする。)

なんと、賽銭箱にも!
 中央の金色に輝く円盤を、よーーく見ると・・・・・
 
 


よく調べた史実を、ずぅーっと上から俯瞰して、独自の歴史観を打ち立てた司馬遼太郎さんは、土佐稲荷や岩崎家旧邸跡に隣接する西長堀マンモスアパート(と当時言われたマンション)
の10階西端にある、この土佐稲荷を望む部屋に住んだという。(写真下)

当時はまだ、西横堀川も埋め立てられず、土佐藩蔵屋敷が有った頃の地形が残っていた。
このころ「竜馬が行く」を執筆。坂本龍馬がこの辺りを闊歩した姿を思い浮かべながら書いたのではないだろうか。
 
 


関連news

高知県の方針が大阪重視になりました!(2002記)

上記「西区と土佐と三菱と」の文章を平成11年(1999年)高知県大阪事務所に届けた。
特段返事なども無かったが、ずっと保管・記憶してくれていた。
平成13年になって地元高知県の郷土史家の方も、大阪の中の高知県を取り上げられた。

これらがきっかけとなり、高知県大阪事務所では平成14年1月15日から3月末まで「なにわの高知」写真展が催されることとなり、
それに先立つ12月、同事務所の起塚所長と彼末次長のご訪問をうけた。
「高知県は東京よりも大阪に近い。その大阪との歴史的にも深い関係を見つめ直し、いままで以上に重視してゆく」とのことでした。

(高知県大阪事務所のホームページ「高知情報プラザ」 http://www.pref.kochi.jp/~kikaku/oosaka/)
(大阪の「とさの店」情報、高知への「観光情報」や、「かんさい高知ファンクラブ」では船便や宿泊施設の割引情報もある)

確かに、高知県はカツオやマグロなど黒潮の魚介類や、柚子(ゆず)村のポン酢などおいしいものであふれている。
また、橋ができてから車や電車で簡単に(4〜5時間・新幹線や飛行機利用なら2〜3時間)で行けるようになったと聞く。
龍馬やジョン万次郎の故郷でもある土佐に、近いうちに行ってみたい。

高知新聞に取り上げられました!(2002/2)

平成14年2月になって高知新聞社の取材も受けることになった。
その際の記事。(クリックすると大きくなります)

地域誌「大阪人」が堀江と土佐の関係を取り上げました(2003)

平成15年大阪市の外郭団体が発行する地域誌でも取り上げられました。
「17世紀初め、土佐藩の申請により、立売堀(堀江の北方)で材木市が始まった。
その後堀江が開発され、土佐藩が西長堀の白髪町に蔵屋敷を構えると、
ここ堀江に市ができ、全国の木材が集まるようになった。
木材市場開設の功績により、土佐藩の材木は問屋手数料が格安
(一般は10%に対し土佐藩は2%)に設定された上、他に優先して扱われた。」
(「大阪人」2003年5月号・(財)大阪都市協会刊・より)

高知・白髪山の方が堀江・白髪橋を訪問されご案内しました(2017/3)

2017年(平成29年)3月、なんと「白髪橋」の名の由来、「白髪山」がある
高知県嶺北郡本山町の汗見川活性化推進委員会
の方の訪問を受け、土佐稲荷界隈のまち歩きを引き受けました。

当日は上記土佐稲荷をご案内したあと、クライマックスは「白髪橋」の道路標識!
全員で指差し記念写真。


土佐公園
隣の土佐稲荷とともに藩邸内。

白髪橋の碑
白髪町があったと。

バスで返りま〜す。最後に乗り込むのはコーディネートされた野尻萌生さん。元々この町生まれじゃないのに、今、汗見川愛 たっぷりです。
事前ヒアリングではしそジュース(濃縮・ストレート)、
案内のお礼にと、しそドレッシング、シソ茶に どぶろく など戴き、
しそ系はハチミツと合わせてサッパリとしたうまさ。
どぶろくは度数あっさり食感たっぷりで日本の米酒のルーツを味わえました。

このサイト参考に高知県産の大阪名物ができました。(2017/4)

2017年4月、なにわ名物を開発・販売している (株)せのやさんが,、
このサイトで改めて高知と大阪とのつながりの深さを確認され、
高知県産「芋けんぴ」と大阪の伝統的な門付け芸「ちょろけん」とを組み合わせた商品
「なにわちょろけん ちょろけんぴ」を開発されました。
なんと、お礼に販売前の商品をメッセージ付きで送ってくださいました。

今流行りの「塩味」濃い目の芋けんぴ。クセになる旨さです。
「おすそ分け袋」(この絵がカワイイ)が5つもついてて職場で分け合えたのも嬉しい!
こちらが商品サイトです。


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