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百科事典には及びません。
大阪八科事典 まだ始まったところですが、今後随時増補します。

         




イチロー:野球選手→大阪・関西にゆかりのある人物集
イラチ:せっかちのこと。関西人の民族性?であり、文化である。信号は赤でも横切る交通が無ければ渡るのは有名。動く歩道(ムービングウォーク)でもじっとしている人はほとんどいない。歩行速度も世界の主要都市で一番速い。車で赤信号から青信号に変わってから、それでも止まっている車にクラクションを鳴らす速さも全国一。
 公的なものでもNTTの天気予報はNTT東は「概況」から入るが、NTT西は「結論」つまり晴れなのか雨なのか、降水確率はいくらか?から入る。合理的である。 都市高速道路の渋滞の定義も首都高は速度20km以下を「渋滞」というのに対し、阪神高速は時速30km以下は渋滞扱いとなる。東京に行った関西人からは「高い金払って時速25kmで渋滞ちゃうとはどういうことや!」との声が聞こえてきそう。
渋滞の定義 速度 距離 継続時間
阪神高速道路 30km/h以下 1.0km以上 30分以上
首都高速道路 20km/h以下 1.5km以上 基準無し
渋滞は運転者の大多数が「渋滞」と感じる状態とのことで、地域差がある。首都高では時速10キロ台ののろのろ運転が1.5キロ以上続く状態じゃないと、渋滞とはならない。それでも首都高は阪高より渋滞は多い→その渋滞情報のページ
OSK日本歌劇団(おーえすけいにほんかげきだん):宝塚と並ぶ日本の2大少女歌劇(レビュー劇団)の1つ。元、松竹歌劇団。1922(大正11)年松竹楽劇部として大阪で発足。(2002年で80周年!)笠木シズコ(買い物ヴギ、東京ヴギ)や京マチコら多くのスターを輩出。1928年東京に派生した楽劇部は、水の江滝子(ターキー)を輩出し、「東京おどり」など東京名物となったが、1990年レビュー劇団の幕を下ろす。本家・大阪は東京と区別するため「大阪松竹歌劇団」(OSK)と称したが、松竹の手を離れ近鉄グループに入った。絢爛豪華な衣装もさることながら、優れたダンステクニックとともに、楽しく親しみやすい音楽やトークが特徴だと評する声がある。ホームグランドは奈良市「あやめ池遊園地」円形大劇場で、サブグラウンドは近鉄上本町駅の近鉄劇場。名古屋や東京でも公演を行う。2003年春、近鉄の手を離れ市民劇団となった。OSK日本歌劇団存続の会会員募集中! OSK日本歌劇団の為のページ   OSK日本歌劇団(日本のミュージカル情報)
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空堀商店街(からほりしょうてんがい):大阪城の南西、長堀通りよりも南側150から300mに、西(松屋町)から上町筋まで、上町台地を垂直に登るように存在する、大阪では珍しい坂の商店街(大阪・谷町6丁目南側)。なにわ庶民の人情が残り撮影などでよく使われる。この界隈は戦災でも焼け残り、昔の路地や長屋、石畳など趣のある風情が色濃く残り、近年、それらの魅力を基に再生するプロジェクトが進行している。 →「大阪の骨格」模式図:4長堀通と5千日前通の間で七松屋町筋から八谷町筋を越え九上町筋までを結ぶ商店街。 空掘ど〜り商店街のホームページ 空堀商店街界隈長屋再生プロジェクト「からほり倶楽部」のホームページ
キタ:梅田駅界隈一帯を指す俗称。→大阪の掟
玄月(げんげつ):芥川賞作家。→大阪・関西にゆかりのある人物集
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松竹歌劇団(しょうちくかげきだん)→OSK日本歌劇団(おーえすけいにほんかげきだん)
松竹芸能(しょうちくげいのう)鶴瓶など笑福亭一門やオセロ、ますだおかだなどが所属している芸能プロダクション。松竹芸能のホームページ
松竹新喜劇(しょうちくしんきげき):吉本新喜劇(大阪)と並ぶ日本の2大喜劇。1948(昭和23)年、曾我廼家十吾(そがのやじゅうご)と渋谷天外(しぶやてんがい。2代)らにより大阪中座(なかざ)で旗揚げ。曾我廼家五郎八(そがのやごろはち)らを輩出。1952年以降東京でも公演し、人気を博する。1965年以降は藤山寛美(ふじやまかんび)が主導権を握り、1966年11月〜1981年10月の180ヶ月連続公演の記録を打ち立てる一方、演目を当日の客に選ばせ、即座に演じてみせる「リクエスト公演」という史上類を見ない企画を成功させ話題となった。
心斎橋(しんさいばし):旧長堀川(現、長堀通り→「まちの骨格」)に掛かっていた橋()。1662年、伏見の岡田心斎らが長堀川を掘削した際、自分の屋敷前に架けた橋と言われる。大阪を舞台にした米ハリウッド映画ブラックレイン(1989年)では霧の中の幻想的な橋として描かれた。
   →心斎橋筋(しんさいばしすじ):心斎橋の南に延びる街路。道頓堀川に掛かる戎橋までをいう。新町遊郭と道頓堀演劇街を結んだ心斎橋筋は大阪一の繁華街として栄え、昭和以降は都心商店街として発展した。
   →心斎橋ブティック街:心斎橋駅(新橋:御堂筋と長堀通の交差点)を中心とするスーパーブティック巨大路面店群をはじめ、心斎橋筋、東心斎橋(ヨーロッパ村)、西心斎橋(アメリカ村)、堀江、南船場には日本最大とも言えるファッションエリアが広がる。→日本最大のブティック街・心斎橋
スチーブン・セガール:男優→大阪・関西にゆかりのある人物集
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伊達公子(だてきみこ):テニスプレーヤー→大阪・関西にゆかりのある人物集
手塚治虫(てづかおさむ):漫画の父と呼ばれる。大阪府豊中市生まれ。→大阪・関西にゆかりのある人物集
道頓堀(どうとんぼり):→平野の成安(せいあん)道頓が豊臣秀吉の許可を得て、東横堀から西横堀、木津川へつながるルートを企画し1612年着手、豊臣側についた道頓が大阪の陣で死んだ後、徳川の治世となって、いとこの安井久兵衛道卜(どうぼく)が事業を継いで完成した。はじめ南堀と言われたが大阪城主松平忠明は道頓の功をたたえ(大坂市民慰撫策と思うが)「道頓堀」と名づけた。江戸時代から浪花五座と言われ芝居町(劇場街)として栄えた。→道頓堀は世界のブロードウェイ(演劇街) 成安道頓の話は司馬遼太郎の「けろりの道頓」(「おれは権現」1982講談社収録)が面白い。
飛田新地:大阪市西成区山王2界隈の遊郭跡。現在は「料理店」に衣替えしているが、戦前から残る和風の家屋の玄関は間口を大きく開けて、20代〜30代の女性がピンクの蛍光灯に妖しく照らされて正面に鎮座している。その脇に店主(おばさん)がいる。→Under Osaka−Walker「飛田新地」 関西新地情報 冒険小僧「大阪で冒険する・飛田新地」 月刊お好み焼き「鯛よし百番」(飛田新地・嘆きの壁・地図)
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直木三十五(なおきさんじゅうご):直木賞の名の由来となった人物。→大阪・関西にゆかりのある人物集
なにわ:大阪の旧称。漢字は色々あり、上方芸能や文化に関するときは「浪花」、観光名所として「浪華」、日本最古の都「難波宮」や大坂三名橋としての「難波橋」(このときは「なんば」とは読まない。)元は、神武天皇が奈良に入る際この地で難渋し、波が速かったので「浪速(なみはや)」。あるいは難儀な波だったので「難波」としたのが始まりとの説がある。おおさか
浪花五座(なにわござ):道頓堀の弁天座朝日座角座中座浪花座(竹本座)をさす。江戸時代に江戸三座、浪花五座と言われ、演劇界を代表する劇場とされた。→道頓堀はブロードウェイ?
野茂英雄(のもひでお):野球選手→大阪・関西にゆかりのある人物集

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福沢諭吉(ふくざわゆきち):大坂・堂島の生まれ。→大阪・関西にゆかりのある人物集
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盛田昭夫(もりたあきお):ソニー創業者。大阪帝国大学卒業。→大阪・関西にゆかりのある人物集
ミナミ:難波駅、心斎橋駅界隈一帯を指す俗称。→大阪の掟
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湯川秀樹(ゆかわひでき):日本初のノーベル賞学者。理論物理学。東京生まれ。京都大学卒、大阪大学助教授のときノーベル賞受賞。
吉本興業(よしもとこうぎょう):吉本せいに始まる大興行会社。吉本興業のホームページ
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ワッハ上方(わっはかみがた):大阪府立上方演芸資料館。上方演芸の伝統を知る資料のほか、落語会などにちょうど良い300人の演芸ホールや、レッスンルームではおなじみの有名人からインディーズまでの演芸会が開催されている。ワッハ上方のホームページ

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