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大阪・関西にゆかりの有る人物集
 
大阪人の性格:出る杭(軽いルール違反)は放っておくのに、困ってそうな人には構う。→大阪の魅力〜アクションを起こす人にとって〜
ノーベル賞の田中さんも「関西の企業」だったから若くして独自の研究の責任者になれたのではないか。(2002/12/26)


 ・・・・・芸能・スポーツ以外でも、昔からノーベル賞学者は多く関西から輩出されたし、戦後日本の新ビジネス74種の内57種は関西発祥と言われ、おおむねその背後に個性的な人物が居る。何か「ブームで終わらない新しいこと」を発想させる風土が有るように思う。(反対に東京発は「ツッパリ」という言葉に代表されるように一過性のブームが多く、定着するものの割合は極めて少ない。) 関西で揉まれることが新しい考え方を要求し個人の才能を刺激するのか(→参照へ)、ほかに頼れないから苦し紛れに伸びるのか?・・・・・良くはわからないが、全国の人、世界の人は一度関西で生活してはどうだろうか?素質のある人は、伸びる良いきっかけになると思う。
(参照:大阪・関西の魅力〜アクションを起こす人にとって〜by大阪まちプロデュース)


 2001年2月13日発売の月刊誌「日経エンターテーメント!3月号」では、「関西の才能が世界を救う」と題して特集記事を載せている。歌手aikoや倉木麻衣、花*花、矢井田瞳、女優の本庄まなみ、藤原紀香など確かに最近、関西系の芸能人が多々輩出しています。大リーグに行く野球選手に至っては佐々木投手以外は、野茂、伊良部、長谷川、吉井、マック鈴木、イチロー、新庄と関西人か関西球団出身者ばかりだ、とのこと。
みんなが知ってる・・・
野茂イチロー福沢諭吉その師匠オムロンソニーターミナルデパートやビジネスホテルインスタントラーメンマンガの父直木賞
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逆にまだ余り知られていない大阪・関西の偉人(omp推薦):直木三十五 貴志康一 木村蒹葭堂 並木正三 麻田剛立・間長涯・高橋至時
現在進行形
文学 文化/ビジネス スポーツ 女優&男優 歌手 
20世紀の偉人
政治・学者 起業家 文化 文学 他・準備中
歴史上の文化人

(現在進行形)

(文学)

玄月(げんげつ)この度芥川賞(第122回平成11年下期)を受賞。1965(昭和40)年大阪市生まれ、市立南高校卒。在日韓国人。受賞作は「蔭の棲みか」(文藝春秋)。選考委員の宮本輝氏は、作品ついて「戦後五十余年、難しい歴史はあるが、在日の人たちの一つの過渡期、世代替わり、つまりスタンスの違いが微妙に表されている」と評した。在日韓国人のまちのおじいさんとその周囲の人々の話。原作を読んだ。事実に対する冷静な見方の中に、人間に対する暖かいまなざしを感じた。(作風は全く違うが、この感じは司馬遼太郎にも共通する) 新聞の文章を見た感じ「ほんわか」した感じの青年(私と同い年)だ。

(文化/ビジネス)
井上大祐(だいすけ):日本発で世界の文化となった「KARAOKE」(カラオケ:名称は空(から)のオーケストラの略)の発明者。1940年大阪市生まれ。少年時を西宮で過ごし、浪速工業高校在学中からバンドマンとして活躍。卒業後証券会社商事部に入社するが、バンドマンスタイルを通し上司と衝突、会社を飛び出す。以後、バンドマンとして神戸を中心に演奏。客のキーやテンポに合わせて演奏するのが得意で、ある日なじみの社長が社員旅行用に演奏をテープに録音してほしいと言って来た。いつものようにキーやテンポを社長に合わせた演奏を録音すると、これが大好評だった。「ならばこういうテープを酒場に置いたらいいじゃないか」。閃いた井上は、当時登場していた8トラックのテープにオリジナル演奏を吹き込んで空演奏のテープを作った。同時に再生装置にコインボックスを付け、100円で5分間マイクの音声と演奏が流れるように設定した。1971年、アンプ、コインボックス、マイクを合体させ、「8(エイト)ジューク」という世界初のテープ式カラオケをこの世に登場させた。その後「テープの一発頭出し」や「利用者のキーに合わせた伴奏」などの機能も充実させ、現在、世界でカラオケが愛用されるようになった。(英名「KARAOKE」、中国名「卞拉OK」) 1999年アメリカの週刊誌「タイム」で、「今世紀もっとも影響力のあったアジアの20人」に、ガンジー、毛沢東、昭和天皇らとともに選ばれる。→有限会社イノウエ

ミクシィ社長笠原健治:1975大阪・千里生まれ。日本最大のSNS(ソーシャルネットワークサービス)「ミクシィ」の社長。SNSでは友達の友達というようにたどり、つながってゆくことで、地域を越えた同じ趣味の会ができたり、何らの関係もない閲覧者を排除できるなどのメリットがある。
笠原氏は北野高校では笠やんと呼ばれていた。水泳部。東大在学中にビルゲイツの本に触発され就職サイト起業。後に有限会社設立。

はてな社長近藤淳也:1975三重県生まれ四日市南高校から京大。広辞苑より幅広い言語検索「はてなダイヤリー」や、複雑な条件など文章での質問に色んな人が回答する「人力検索」など、色んな「?」に答えてくれる「はてな」の社長。
京大自転車部で日本一周 尾根縦断 アメリカ横断など。 現在シリコンバレー在住。

エイチ・アイ・エス澤田秀雄:1951大阪府生まれ。大阪市立生野工高卒業後、73-76年に旧西独・マインツ大に留学。留学中に日本人ビジネスマン向けに旅行代理業バイトで月間純利100万を稼ぐ。帰国後東京に出る。海外から見て異常に高い毛皮を業としようとするが、ワシントン条約の発効で頓挫。80年同様に内外価格差の大きい国内旅行会社を始める。格安航空券販売を中心に業績を伸ばす。96年ホテル業開始。98年航空会社「スカイマークエアラインズ」を就航。証券会社・銀行も取得。(株)エイチ・アイ・エスは現在旅行代理業5位。05年海外旅行はJTBを抜き国内トップ。

出口最一(でぐちまこと):1959年奈良県生まれ。一時「劇団四季」にも居たが、思うところあって87年ニューヨーク・ブロードウェイに渡った。そこで見た自由さは東京とは全く違う、しかし関西人の彼にはとてもフィットする世界だった。水を得た魚のように老舗劇団の演出助手を2年半勤めたあと、オフブロードウェイで「ブルーマングループ・チューブス」を初めてプロデュースしたが、それが大ヒット。2008年現在17年目のロングラン公演中。同作品は数々の賞を受賞し、本人個人もNYの商業演劇協会賞を受賞し、日本でも「21世紀をつくるキーパーソン」(集英社「imidas」1994)の一人に挙げられた。
 
 


(スポーツ)

野茂英雄労使紛争で沈滞していた大リーグへ渡り、すばらしい投球技術で大活躍し、その野球を愛する姿勢が結果的に大リーグ人気をも復活させた。現在の日本選手の大リーグ挑戦の流れのきっかけとなった。

伊達公子京都出身。長身有利のテニス界にあって、身長163センチにしてテニス・世界第4位。当時第1位のグラフをも破ったこともある。その秘訣は「一歩前に出ること」。危険ではあるが相手に0.4秒早く球を返せる。高校生の時に弱点克服のためのアイデアを考え抜いた結果だ。「テニスを好きでありたい」ため絶頂期で引退したが、日本のテニス層を厚くするため若年層への普及を目指す活動を展開中。

イチロー高校野球界では個人的には6〜7割の打率を誇ったが、チーム自体が目立たずドラフトでは注目を集めなかった。神戸のオリックスブルーウェーブス入団後、打法を矯正される間は花が咲かず、3年目仰木監督(長年大阪近鉄の監督だった)の下、「振り子打法」の許可、出場名を鈴木一郎から「目立つ」イチローに変えてから突如球界を引っ張る存在に・・・。彼が驚異的なのは今までのヒーローと違い「打つ」「走る」「守る」のオールラウンドプレーヤーであることだ。プロの中のプロあるいは天才と言って良いのではないか。その天才性は根っからの大阪人仰木監督との出会いで引き出されたと言うのは考えすぎだろうか。

追記ーー2001年米大リーグ、シアトルマリナーズへ移籍。盗塁王、首位打者、ゴールデングラブ賞など走・攻・守で大活躍をし、新人王、2001年大リーグMVPに輝いた。
2004年シーズン2度の月間50安打を記録。大リーグ史上でも過去に1人(ジョー・メドウィック)しかおらず68年ぶり。また2001年8月と2004年5月、7月の通産3度(5年で。)は史上2位で「安打製造機」と呼ばれたピート・ローズの通産4度(現役24年で。)に次ぐ。

(女優編)

藤原紀香:阪神間で育つ。神戸の親和女子高時代に甲子園の高校生レポーターとしてテレビに露出したのがきっかけ。島田紳介の関西ローカルクイズ番組「ナイトインナイト」のアシスタントをしていたのは有名。

常盤貴子:東京生まれ関西育ち。小学生から高校生、デビュー前までの青春時代を関西で過ごす。だから友人とは関西弁、香港では広東語、東京では標準語を話す。

黒木 瞳:福岡生まれ。宝塚音楽学校、同歌劇出身。今から10数年前関西ローカル番組「おはよう朝日です土曜日です」のアシスタントをしていた。

その他関西系の女優:沢口靖子(堺市)、南野陽子(伊丹市!?)、鈴木杏樹本上まなみ(大阪市!?)・・・

松本孝美、この人はコカコーラやJCBのコマーシャルで人気のモデルだった樟蔭の出身。
真中瞳は大東市出身で大阪女学院高校に派手さを好んで進学したと自らの本に書いている。現在最多アクセスを誇るブログの女王と呼ばれる。
吉岡美穂は瓜破や瓢箪山という難読地名のコアなところで育つ。レースクィーンからアデランスのヘアチェックCM。NHK外国語講座。
三ツ矢歌子さんはプール女学院の出身。プールといえば松原みきという女性シンガーも有名。女性シンガーでいえば「翼の折れたエンジェル」の中村あゆみは枚方市枚岡に住んでいた。八尾高校出身。
桑名晴子、桑名正博の兄妹は大阪市阿倍野松虫。

(男優)

スチーブンセガール:ハリウッド・アクション俳優の彼は、大阪十三で何年か暮らしたことがあり、彼のカラテも十三の道場で修行したもの。
豊川悦司:八尾の人で清水谷高校に通っていた。
内藤剛志:父親がJOBKに勤務していて越境で船場中学に通い星光学院に進む。

(歌手)
Aiko、ウルフルズは大阪出身。花*花は兵庫。矢井田瞳は関西大学在学中デビュー。またMr.チルドレン、カン、スピッツなどは大阪のFM802から火がつき全国ヒットとなった。
葉加瀬太郎(はかせたろう):大阪府吹田市出身。UA(うーあ)も。押尾コータロウも。
つんく♂
河合奈保子は住之江区粉浜に住んでいた。夕陽丘にある大阪女子学園に通っているときに 「西条秀樹の妹」コンテストでデビュー。
堀ちえみは帝塚山学院の出身。
柏原芳恵は西成区出身。以上3人はいずれも中学のときにスカウトされて東京に行った。


(20世紀の偉人編)

(政治・学者)

福沢諭吉:大阪(堂島←梅田の南)生まれ。中津藩大坂蔵屋敷勤めの父の死で2歳で実家の有る中津藩(大分県)へ。19歳で長崎へ蘭学修行に出た翌年、再び生まれ故郷の大阪に戻り、自由な校風の「適塾」(てきじゅく。大阪北浜←中之島南側)で緒方洪庵に学び、塾頭を務める。23歳の時、藩命により江戸へ行き中津藩屋敷に塾を開く。後の慶応義塾。明治期の思想に多大な影響を与えた。現在1万円の顔。

緒方洪庵:備中(岡山県西部)足守藩の子に生まれる。15歳の時、父が大坂蔵屋敷留守居役になったため大坂へ。これが人生の転機となる。大坂には武士が少なく、商人や学者が多かった。柔弱な自分は武士には向かないとして医学を志すようになる。大坂、江戸、長崎で修行しながら蘭学の訳本などを著し、28歳大坂瓦町で適適斎塾(適塾(てきじゅく):5年後大坂北浜へ)を開く。緒方洪庵の名は高名であり全国から優秀な若者が集まり、寄宿生だけでも637名、外塾生を合わすと2000とも3000とも言われる門人を育てた。門人には福沢諭吉や大村益次郎(近代的軍制の創始者)、大鳥圭介(学習院院長・外交官)、佐野常民(日本赤十字創始者)、橋本左内(国連的機構の出現を予想)、長与専斉(衛生行政機構の確立、コレラ予防)らがいる。明治初期の人材は、政治家や軍人は薩長が並び、文化人は適塾が並ぶと言われる。

(起業家)

盛田昭夫:ソニー創業者。愛知県生まれ。1944(昭和19)年大阪帝国大学理学部物理学科を卒業し、ここで学んだことを東京工業大学付属工業専門部の講師として指導。井深大氏とともに東京通信工業(現ソニー)を創業。世界賢人会の一人。

立石一真:オムロン創業者。1900年熊本市生まれ。21年熊本高等工業高校(現熊本大学工学部)電気科卒、兵庫県土木課に入る。翌年京都の配電盤メーカー就職。30年退職し京都に日用品製造販売会社設立。33年大阪市都島区に立石電気製作所(現オムロン)を設立。レントゲン写真撮影用タイマー・継電器を製造。1945年工場が戦災で全壊。京都市に移転。49歳の年に夫人を亡くす。このころ京阪神の経営者の集まりで、専門家から米国の「オートメーション」(機械が製品を作る)の話を聞いて衝撃を受ける。53年制御装置製造開始。以後リレースイッチから、自動券売機、POS(販売時点情報管理)システムなどを展開してゆく。1970年「最適化社会」「自立社会」を予言する「シニック理論」発表。1972年京都財界が設立した日本初のベンチャーキャピタルの社長に就任。その第2回投資先の日本電産は後にハードディスク・ドライブの世界トップ企業となる。

小林一三:阪急電鉄創業者。ターミナルデパート創始者。宝塚少女歌劇創設者。ビジネスホテル創始者。

安藤百福:台湾出身。戦後・闇市のラーメン屋台に並ぶ行列と、中華の揚げ麺から、大阪・池田でインスタントラーメンを発明する。日清食品創業者。カップラーメン創始者。2005年野口 聡一氏の宇宙飛行の際、無重力空間用のインスタントラーメンを開発・実験成功した。

(文化)
井上大祐:カラオケの発明者。神戸のバンドマンをしていたが、お店に自分が居なくても歌の伴奏をできる装置として、当時の8トラックテープレコーダーにコインボックスとマイクをつけた業務用「カラオケ」を開発した。名称は「空(から)のオーケストラ」より。KARAOKE(カラオケ)は中国語でも英語でもそのまま発音され、現在世界で楽しまれている。1999年米「タイム」誌で「今世紀最影響力のあったアジアの20人」に昭和天皇、ガンジー、毛沢東などとともに選ばれる。2004年イグ・ノーベル賞(ノーベル賞とはちょっと違う。)の平和賞受賞。受賞スピーチでは唯一スタンディングオベーションを受けたという。

手塚治虫:漫画の父、漫画の神様と呼ばれる。現在世界の主流となった、ストーリー漫画のパイオニア。1928(昭和3)年豊中市生まれ。父はカメラや映画が趣味。母は大のタカラヅカファン。5歳で宝塚へ。家族で大阪中之島の朝日会館にアニメ映画をよく見に行く。大阪府立池田師範付属小学校入学。既に漫画を描き、同級生や職員室で評判に。同校はこの時代に6年生でも男女共学、個性の伸張という教育方針で、作文能力が開花。また1938(昭和13年)大阪市立美術館の「絵ヲ習フ会」で優秀賞。5年生ごろから「治虫」のペンネームを使う。
1941(昭和16年)大阪府立北野中学(現、北野高校)入学。漫画も墨とペンを使う本格的なものに。「ロスト・ワールド」で漫画と小説の融合(ストーリー漫画)に挑む。キャラクター「ヒゲおやじ」登場。戦時中だが、理解ある先生の励ましも有り、漫画家の才能を開花させてゆく。
1945(昭和20)年大阪大学付属医学専門部(現、医学部)入学。大阪府立女子大の学生らとともに劇団「学友座」が結成され、参加、出演。ストーリーを漫画で配布するなどもした。
1946(昭和21)年「少国民新聞(毎日小学生新聞)関西版」に「マァチャンの日記帳」の掲載が決まり、「初仕事」となる。好評で掲載期間延長、キャラクター商品「マァチャン人形」まで登場。掲載紙の入手のため早朝から大阪堂島の毎日新聞大阪本社に通う。のち、「京都日日新聞」にも連載漫画を発表。関西漫画界のベテラン酒井七馬の雑誌「ハローマンガ」にも4コマや短編を描く。酒井七馬原作、手塚治虫作画の単行本「新宝島」の大ヒット。以降、大阪松屋町の通称赤本出版社から精力的に作品を発表。
1952(昭和27)年上京。関西、大阪時代に培った才能を爆発させ数々の代表作を発表。日本発のテレビアニメ制作などマンガ、アニメ界の父となる。ウォルト・ディズニーに憧れたが、後になってディズニー社に逆に手塚の「ジャングル大帝」を「ライオンキング」で模倣(ディズニー社は否認)されたりなど、世界に与えた影響は大きい。現在のジャパニメーションブームの元となった。

(文学)

夏目漱石:(大阪)朝日新聞社員

芥川龍之介:大阪毎日新聞社社員。純文学最高の賞「芥川賞」の名前の由来となった人物。

直木三十五:時代小説を知識階級に読まれる内容にまで高め、「直木賞」の名前の由来となった人物。1891年大阪市南区内安堂寺町生まれ。桃園小学校卒、市岡中学(現市岡高校)卒後、代用教員を勤めたが上京、早稲田大学英文学科予科に合格したが学費滞納で除籍後、出版社を起こすも失敗。関東大震災で帰阪。大阪で雑誌「苦楽」編集に従事。のちマキノ省三らと映画会社を起こして文芸映画を制作したが成功したり失敗したりで再度上京。1921年31歳の時「時事新報」に文芸時評を直木三十一の名で執筆。以後年を追って三十二、三十三とし、三十四を飛ばして直木三十五の名で定着した。1923年菊池寛の文芸春秋創刊に深く関わった。1930年島津藩のお由良騒動を素材とした「南国太平記」を発表して流行作家となる。昭和9年2月24日没。時代小説を知識階級に読まれる内容にまで高めた。その功績を記念して「直木賞」が設定された。現在「直木賞」は大衆文学に対する表彰として最も知名度のあるものである。(omp)
2004年、直木の生まれ育った地、旧桃園小学校隣地に、からほり倶楽部等を中心に記念館を作る動きが出、以前から本稿で「大阪の直木三十五」をアピールしてきた当ompもその設立に関わっています。→新聞記事 「直木三十五記念館」2004.10.23プレオープンしました。

江戸川乱歩:
横溝正史


司馬遼太郎:国民的歴史小説家。産業経済新聞社(大阪)社員時代に書いた忍者物語「梟の城」で直木賞受賞。明治以来有名な大久保や西郷に比べ知られていなかった「坂本竜馬」を取り上げた。個々の資料を丹念に調べる一方、すうーっと高い視点で時代の流れと個人の動きを整合させる手法から得た独自のものの見方は、単なる物語や随筆の域を越え、「司馬史観」といわれた。小説ファンのみならず、多くの経営者や政治家から支持され、また心の支えとなった。東京への移住を各界から勧められたが終身大阪居住にこだわった。東大阪市の居宅敷地に「司馬遼太郎記念館」(夫人で仕事のパートナーでもあった福田みどりさんが館長)ができている。

丹下健三:1913年大阪府に生まれる。東京帝国大学卒。ル・コルビュジェの建築を消化、弟子の前川國男の建築事務所に入って実践を積んだ後、東大大学院修了後「丹下研究室」を作る。東京オリンピックの代々木体育館や、大阪万博の基本設計で名を高めた。文化勲章や建築会のノーベル賞といわれるピューリッツァー賞を受賞。磯崎新、黒川紀章ら多くの人材もここに集い、育って行った。大阪人の両親の血が独創的な発想やデザインに影響したといえば言い過ぎか。2005年3月22日死去。


(その他・準備中)
その他に湯川秀樹(日本初のノーベル賞学者(1949年)。理論物理学。東京生まれ。京都大学卒、大阪大学助教授時代に受賞)(日本のノーベル賞学者は圧倒的に京都大学出身者が多い。)佐伯祐三(画家)貴志康一(夭逝の音楽家)松下幸之助(経営の神様)・・・
 




(歴史上の文化人)
大阪・関西ゆかりとして周知の人物だが・・・
近松門左衛門井原西鶴・・・

木村蒹葭堂1736年、大阪北堀江にうまれた。造り酒屋を営む町人。本草学(物産博物学)を学び、コレクターとしては漢方薬をはじめ美術、地図、自然科学など幅広い収集を行い、例えば、珈琲豆を「コツヒイ」の名で、薬種として日本ではじめて紹介。彼のコレクションにあこがれ、蒹葭堂邸に全国各地から訪れた文化人は、彼の日記(20年分)によると、延べ9万人を数えるといわれる。

並木正三(回り舞台、セリ発明者)→道頓堀はブロードウェイ!?(道頓堀演劇街)

麻田剛立(あさだごうりゅう):医者で天文学者。ケプラーの第3法則と同じ法則を独創。楕円軌道も計算して幕府より正確な暦を個人で作成。

間長涯(はざまちょうがい)重富(しげとみ)。:12歳でプラネタリウム作成。麻田剛立に入門。麻田から推挙され幕府改暦に参画し、町民から幕府天文方「待遇」(幕府に在籍せず帰阪したため)

高橋至時(たかはしよしとき)麻田剛立の門下。剛立に推挙され幕府改暦を行う。全日本地図作成に着手するも病没。弟子の伊能忠敬が完成させる。

橋本宗吉(はしもとそうきち) :エレキテル発案 実験

伏屋素狄(ふせやそてき) :草冠無し 腎臓機能を世界初実証



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