並木正三(なみきしょうざ1730年〈享保15年〉 - 1773年3月9日〈安永2年2月17日〉)について
「浄瑠璃に(近松)門左衛門 歌舞伎に(並木)正三と並べいうとも恥ずかしからず」(並木正三一代咄)
出雲の阿国のかぶき踊りに発し、元禄期に和事荒事女形の3名優生まれるも、その後「なきがごとし」とまで言われた歌舞伎を
二度と後れを取らぬエンターテイメントに高めた歌舞伎中興の祖。
 

アイデアマン、超柔軟、いつも演出を考えていた、ユーモアを忘れない
舞台装置 能舞台から歌舞伎専用の舞台に変えた。(破風屋根と大臣柱、橋掛かりを取り去り、舞台を広く、天井を高く)
現在の様式の廻り舞台(大きくつくり、奈落を掘り込み仕掛を隠し、演出のみならず舞台転換にも使えるように)
大がかりなセリ、妖怪用にスッポン
宙吊り(宙乗り)※1
奇想天外

題材の発想

物語の壮大さ
 

 

インドまで貿易していたという天竺徳兵衛(てんじくとくべえ)を最初に題材にして「天竺徳兵衛聞書往来(ききがきおうらい)」を書く。
次に近松半二が「天竺徳兵衛郷鏡(さとかがみ)」、今では鶴屋南北の「天竺徳兵衛韓噺(いこくばなし)」が有名だが、最初は正三。※2

子供向けお笑い 浦島小太郎のウナギつかみで天上に昇り雷の娘と結婚「おどけ狂言 びっくり浦島天上がえり」@竹田の芝居※3

偉人 河村瑞賢 を悪者(忠臣蔵の吉良上野介)に 「三十石舟登始(さんじっこくよふねのはじまり)」 (廻り舞台1758年)

非情の物」―生き物でない物―に話をさせる祖・・・膏薬箱の五色の膏薬がしゃべる、くしゃみする※4

毎回くじ引きで夫婦役を決める(※正しくは「縁引き」)「男女相性鏡」@角芝居

自分を作中に出した・・・宿無団七時雨傘(やどなしだんしちしぐれのからかさ)」の「高砂屋平左衛門」。明和6(1768)年7月竹田芝居 (正三没後の寛政2(1790)年角芝居上演からは名前も並木正三として演じられた) 端役ではなく、重要な役として。主人公団七に髪を結わせたりなかなか偉そうな役。 当時の役者と歌舞伎作者の関係などのぶっちゃけ話やナマの話し言葉が記され、記録的な価値もあるとされる。正三は未来の立場からそれも想定していたのではないか(山根秀宣私見)

死後も題材にされる。「並木正三冥土旅立」(作者作年不明) 「並木正三不戻噺(もどらぬばなし)」・・・「自分が死んだとつゆ知らぬ正三は・・・」「閻魔大王と、、、」。「戻らぬ噺」のタイトルは下記「尾上菊五郎不上噺」のパロディーだろう。

一座持ちにもなった 明和6(1769)年12月、角芝居にて富士松山十郎座を取立てる。 但し翌年11月には中芝居の座付き作者に転じる。
歌舞伎作者、浄瑠璃作者、プロデューサー、登場人物、一座持ち、舞台機構設計者、マネージャー、親の家の設計など多様な顔を持つ。
チョボ(解説)の多用 観客を言葉で引き込む努力を惜しまない。 今のように古典として筋立てを知っている人に見せるのではなく、当時は新作である。複雑な内容にするほど深みは出るが観客がついてこれない。浄瑠璃では情景も見方も解説しているのでこれを歌舞伎でも導入。
駆け足の人生
全て早い
数え、14,5歳で水船の仕掛けを考案。
19歳で歌舞伎作者に名を連ね、
20歳ではや立作者(座付き狂言作者の第1人者)
21歳で人形浄瑠璃作者の並木宗輔(千柳)に弟子入り
22歳で後世に残る名作を千柳tらと共作 「一谷嫩軍記」など
23歳で歌舞伎に戻り
24歳「けいせい天羽衣」で3間四方のせり上げ
29歳「三十石舟登始」で廻り舞台
32歳「霧太郎天狗酒盛」にて宙釣り(宙乗り)。※5-1既存技法を工夫して宙乗りを完成させる※5-2
36歳竹田芝居にてこども向け芝居を始める。おどけ狂言「恟(びっくり)浦島天上返(てんじょうがえり)」@竹田芝居 にて流行語「そんてんびる」を生む。
38歳
40歳で一座持ち@角芝居
43歳胸の痛み
44歳で没
宣伝もうまい セリの上げ下げと相場の上げ下げをかけて大坂商人の心をくすぐる
逆境もめげずに とんちでシャレに 「尾上菊五郎不登噺(おのえきくごろうのぼらぬはなし)」江戸に行ってた歌舞伎役者・尾上菊五郎が道頓堀で公演するのに合わせて作品を書いてたのに、急遽来なくなったことを受けて、「大坂に来なくなったこと」自体をタイトルにした。江戸期は京・大坂が天皇がおわしますので京坂地域を上方(かみがた)と言い、やってくることを登り(のぼり)、離れることを下り(くだり)といった。
「並木正三一代咄」「歌舞伎 研究と批評」第7号(1991.6)、第8号(1992.1)掲載の 「並木正三年譜考」(上)(下)土田衛氏をもとに、他の資料を参考に、並木座仕掛人山根秀宣の思う特徴を挙げた。2021.5.19
※1演出のための舞台装置は享保期から様々工夫されていたことは報告されている。しかし結果的に「歌舞伎はなきがごとし」というほど人気が無い状態だった。
正三はそれらもベースに、また斬新な発想で舞台そのものを改造しそれぞれ現代に通じる形に完成させた。
※2「歌舞伎 研究と批評」第7号1991.6(株)リブロポートP43 「正三再読 天竺徳兵衛聞書往来」松平進
※3「笑いの歌舞伎史」荻田清2004朝日新聞 P125-126
※4「笑いの歌舞伎史」荻田清2004朝日新聞 P124-125
※5-1「道頓堀の300年」木谷蓬吟1947 P59 ※5-2ブリタニカ国際大百科事典小項目事典「宙乗り」コトバンク
 

他サイトの並木正三評
歌舞伎用語案内 初代並木正三(飯塚美佐)
現在使用される舞台機構の多くが正三によって考え出されたと言われています」
ドラマチックな構想や展開、様々な先行作品を巧みにとりいれ、大規模な舞台装置や転換技術を融合させ、実際に舞台で視覚的に表現してみせる手腕は他に比するものがありません。
「実際に起こった事件をストーリーに取り込み、すぐに舞台化する “一夜漬(いちやづけ)”、異国趣味を織り込む(中略)など世間の話題や関心事にも敏感。
“天竺徳兵衛もの”の魁(さきがけ)や、自分自身の役を登場させるなど、斬新なアイデアにも富み、現在の歌舞伎のエンターティメント的要素の多くは、すでにこの正三の作品に含まれていた
「義太夫節の語り(竹本)を比較的多く使用した作品が多い」

歌舞伎美人(かぶきびと)並木正三1〜4(松竹株式会社 M氏)
「江戸中期の歌舞伎界を代表する狂言作者」
現在では近松門左衛門や四世鶴屋南北、河竹黙阿弥などに比べ、一般的には知名度の低い並木正三ですが、
歌舞伎史を振り返る上で、欠くことのできない狂言作者
 →要するに「4大作者の一人」「歌舞伎史上欠かせない作者」とも読める。(山根)
  名作は人形浄瑠璃で生まれ「歌舞伎は無きがごとし」と言われた状況を一変させた功績を考えると
  山根は「歌舞伎中興の祖」と呼びたい。
 

関連研究
歌舞伎のセリ上げにおける表現を巡って
          ―「けいせい天羽衣」のセリ上げの復元と視覚言語的分析―
ベンヤミン・フィツェンライター  武蔵野美術大学 博士学位論文 内容の要旨および審査結果の要旨
本論文は、江戸時代の歌舞伎作家並木正三の「けいせい天羽衣」の調査研究によって、「セ
リ上げ」という舞台装置が今日の日本のアニメ・漫画に通じる視覚言語としての意味を持
つことを論証している。